東海教区仏教青年連盟主催

公開講座 同朋の集い

いのちを考える 4

― いのちの選択をしてきた人類の歴史 ―

【公開講座の記録】

[講師:森岡正博 氏]

 医学の視点と家族の視点

――つながっていく、友人たちにつながっていく、というのはよく分かるんですけど、
臓器は違うじゃないですか。臓器の問題を介して感情もつながっていく、ということですが、
そのあたりは結びつかないですよね。

 私が今お話したのは、臓器の流れではないですね。臓器が移植されていくのも「いのちのリレー」ですね。
これはまず次元が違うよね全然。ここ(移植)で受け継がれていくような、本人が<そうしてほしい>という願いを
持っていて、患者も<移植してほしい>という願いを持っていて、臓器が移植された場合は、助け合い、支えあいが
できているんです。この時点では、それは確かにそうです。

――すべて周りの人たちが納得してて、すんなり移植されればいいけど、どうもそうではない、と。

 そうですね。そこは本当に難しいです。脳死の臓器移植というのは、危険性があるんですね。そのひとつは、
色々な人の思いをかき乱してやっちゃう、という結果になりがち、ということですね。だからさっきご紹介した例が
まさにそうですね。つまり、脳死からの臓器移植というのはかなり難しいですけど、理想を言えば、本人も、
周りの家族も、移植を受ける側も、全員が納得してやれば一番いいことなんです。それが理想的な形だと思います。
またそういう場合もあると思います。でも全部がそうじゃない。

 臓器移植の際、周りの人たち全員の納得があればいいけど、そこで難しいのは、脳死からの臓器移植は素早く
行なわなくてはならない。脳死の判定後、なるべく早く臓器を取り出さなくてはならない。つまり臓器は生ものですから、
ここは露骨な話、生きのいい魚と同じです。

 東京でも名古屋でも、生きのいいフグを食べるには、産地からトラックにつめて急いで運んできて朝一番で
売ってるのが一番美味しい。泳がせて持ってくるのはダメですね、疲れているから。臓器は生きがよくなければ、
移植してはいけないんです。もらった方が具合が悪くなっちゃいますからね。生きがいいというのは、脳死判定直後です。
でも脳死段階で家族はまだ<どうしよう>とか、<うーん>とやってるんです。だから臓器移植というのは、
生ものを、いかに生きのいい状態で、切り取って、いただくか、ということなんです。医学的にはそれだけなんです。
医学的には、法律とか家族の同意だとか、本当に全部めんどくさい限りなんですね。医学の側から言うと。
 だからなるべく早く持ってこなければならない、ということがありますから、いくつかのことを犠牲にしちゃう訳です。
だから、そういう意味で脳死の人を取り巻く家族たちの心をかき乱したり、引き裂いたりする危険性が高い。
だけどそれを心配してたら移植できない。

 ですから現実的・法的には、日本ではドナーカードという制度がとられています。脳死になった段階で、本人が
書いたドナーカードで「私の場合は脳死でいいですよ」というのを持っていて、かつ家族に聞いて、家族も「いい」と言う、
これを必ず確認しよう。本人が「いい」と言っていた、家族も「いい」と言った。それを確認して初めてそこから脳死を判定し、
臓器移植をしよう、と。やりやすくしようと。

 これによって、色々な考え方がわかるわけですね。最も慎重に考える人は、「このやり方もダメだ」と言う。なぜ
ダメかというと、今言ったように、本人はいいかも知れないけれど、家族の同意を取ろうという時に、誰の同意をとるか。
という時、日本のガイドライン、厚生労働省が決めているのは、喪主になる人です。家族全員に聞いたら大変なことに
なるから、葬式をした時に喪主になる人、取り仕切る人の同意を取れ、と書いてあります。残りの人には押し切っても
いいことになる訳です。
 だから、そんなことをしたらダメだから今の形の臓器移植はダメだという人たちもいます。そういう人たちは
「臓器移植に関する法律を撤廃して、もう一回、最初からやり直せ」と言ってますね。それが一番慎重な考え方です。

 現行法を基に微調整を

 また、逆の人たちもいるんです。その人たちは、どう言っているかというと、「日本では臓器移植の数が異常に少ない」。
1999年に脳死審査会ができて今まで何件でしたっけ、18件か19件。そんなもんですね。異常に少ないうわけです、
2年3年経っても。アメリカだと年間全部の臓器の数を合わせると何万という数です。全部足すと。日本では年間10例も
ない。断然少ないでしょ。何故これほど少ないか。「法律が悪いからだ」というわけです。
 なぜ悪いのかというと、日本ではドナーカードで予めサインしてないと、脳死状態では絶対臓器は取り出せないです。
臓器移植は心臓が止まってからになります。

 アメリカではどうか。本人がドナーカードを持っていない場合、家族に聞けばいいのです。家族に「どうしますか?」と
聞いて、家族がOKすれば、臓器は取り出せるんです。これはヨーロッパはほとんどそうなってます。
 これは考えてもらうとわかりますが、ドナーカードはどのくらい普及してますか。日本でもアメリカでも10%か20%くらい
です。アメリカでも30%はいってないでしょう。ということは、脳死になった人の4人に3人はドナーカードを持っていない
わけです。日本では4人に3人は臓器を取り出せないけど、アメリカでは4人に3人は家族が同意すれば移植できる。
ヨーロッパでもそうです。臓器の数を増やすためにそうしているんです。
 日本では1968年に和田医師が心臓移植をして医学会に大汚点を残しましたので、法律を作ることにすごく慎重に
なりました。本人の意思が確認されないと、ということで。ところが海外では「なくても家族が同意しればいいじゃないか」
ということで、現にそれで動いています。

 でも逆に言うと、ヨーロッパやアメリカの方がおかしい、とも言えるわけです。つまり、ドナーカードを持っていなかった
ということは、聞かれれば「自分は脳死での移植は嫌だ」と言うかもしれないんです。その人の意思は裏切られる訳です。
たまたま書かなかった、たまたま持ってなかった、だけではなくて。日本の場合は、書いておかないと絶対しません。
 そういう意味では日本の方が、そこに関わる人、取り出す側の悲劇が少なくなってます。日本はすごく慎重です。
 ところが、話を戻すと、だから日本では臓器移植が少ない。臓器を増やすためには、ドナーカードがないと取り出せ
ない今の法律を改正して、アメリカと同じようにしよう、という動きが出てくるんですね。すると臓器の数が増えるから、
受ける側にとってはすごくいいわけです。そういう考え方があります。議論はもう始まっていまして、改正されるような
気がします。

 それに反対している人たちは、「絶対被害者がでるから」、「意に反して取られてしまうから」と。一番極端な人は「止め」
という慎重派から、全く反対側の欧米のようにするべき、という考えまであります。

 私自身は中間的な立場で、今の臓器移植法は問題はあるけど今のままでいいんじゃないか、と考えます。もちろん
微調整は必要ですよ。子どもの場合は必要だけど、大きくいえば、とりあえず色々な問題、先ほどからお話してきた
ような問題がからんでいる、危ない問題がありますが、今の臓器移植法というのは、結構できるだけ本人の意に
添わないようなことがおきにくいように上手く考えられているので、臓器の数は少なくなるけれども、意に反して
臓器を取られることを少なくすることが大事だと思います。ですから私は現行法をまず守った上でより良くしよう、
という立場をとっています。

 話を戻すと、臓器移植はハッピーな話ばかりじゃないんです。それでも臓器移植を我々が認めるんだったら、誰かが
苦しむことが起きることを、ある程度仕方が無いとするしかない、と思います。もし脳死からの移植をやるんだったらね。
やるんだったら、今の日本の法律は、世界の他の国の法律に比べると、一番悲しむ人が少ない法律だと、私は思います。
 でも出るんです。さっきのように苦しい人が出るし、家族で意見が違っていたとき、踏みにじられる人が出てくる。
臓器が人から人に移ってくるについては、残念ながら関係者が100%幸福な結末を迎えることは非常に少ない医療だ、
ということですね。誰かが泣いている可能性がある。

 いのちを天秤にかける

――死というものがあってのことだから、皆、悲しいでしょうね。

 うん。でもそれ以上に、死以上に、脳死になって先ほどのように、自分は<この人、生きてる>って信じているのに、
「死だ」と判定されて、臓器を取り出すってことをされれば、死が悲しい以上のことになるんです。
 脳死から臓器を取り出すというのは、心臓は動いているんですからね。生命反応はあるんです。その胸を開いて、
血もたくさん出る訳です。心臓はどくどく動いている。その動いている心臓を、ちょんちょんちょん、と切って取り出して、
冷却してしまうんです。だから生きたままされているのと同じようなものなんです。だから死体解剖とは全然ちがうんです。
そういうことを、<この人、生きているのと違うだろうか>と思っている目の前でされる訳ですから、余計辛いんです。

 でも今の社会で臓器移植を受け入れているのは、それよりも心臓が悪くて、そのままだと1ヶ月か2ヶ月のいのちの
人たちがいて、心臓さえもらえば結構長生きできる。で、そちらの方をとっているわけです。ですから臓器移植の問題は、
本当に悩ましい問題ですね。普通の死が与える以上の苦しみを必然的に与える医療だし、これ、やっぱり、いのちを
天秤にかけている訳ですよ。脳死になった人のいのちよりも、もらう人のいのちの方が、天秤にかけたら価値が高い、と。
だから社会としてはこっちの方をとる、という医療です。間違いなく。

 だから、いのちを天秤にかけるおぞましさ、というのを我々はどこかに感じると思います。だけれども、ここがすごい
難しい、我々の社会は結構いのちを天秤にかけている。今日は時間が無くなってしまいましたのでお話できません
でしたけれど、例えば、人間が生まれる時に胎児に障害が見つかったら産まない訳ですよ。これはいのちを天秤に
かけている訳です。検査をして障害があった場合に、病院の中で、正式な統計はありませんが、ほとんどの場合は
中絶をやります、何%かは分かりませんが。

 これは何か。いのちの選択をしているんですね。人を天秤にかけて、障害がある子は中絶して、次に障害の無い
子どもが産まれるのを待つ。選択をしながら。
 きっと我々の社会はやっているんですね。人類はそれを延々とやってきた歴史の流れです。ずっと、いのちを選んで
いる。それをやってきた人類がつくり上げた医療はやっぱりいのちを選ぶんです。
 ここはすごい難しいですよ。だから「いのちを選んでいるじゃないか、天秤にかけているじゃないか」と言って、
「これはおかしい」と言うんだったら、「じゃあ他はどうなのか?」ということを考えると、障害児でも全員産まれる
べきなのか、誰も言えない。ということに直結している話しなんです。ここまで考えると、難しいですね。
 この問題をつなげて考える時には、皆何も考えなくなります。生命倫理学の人でも、もう考えない、ここまでくると。
どう考えていいか分からなくなります。ここまで考えると欧米流になって、「別に、いいやん」ってことになります。
「生き残った人が大事だからいいじゃん」と、胎児より大人が大事。欧米ではそういう考えです。

 アフガンに先に攻めていったのは、アメリカ・イギリスですよね。こういう現世的な考え方が一番強いんでしょうね、
きっと。直感的に言うと、「いのちを天秤にかけたっていいじゃない」、「胎児なんかより大人の方が大事じゃん」、
「今が幸せならいいじゃん」、という人たちが一番強い医療を持つようになるね。そういう気がする、何となく。
これは直感的に言ってるだけですけれど。それに対してカウンターをかましたのがテロ事件なんでしょうかね。
 そうしたことにもつながっている話だと思うんですよ。そういうつながりを全部考えはじめると、
答えは分からなくなります。何故かというと、自分自身の問題に戻ってくる話だからです。なぜ戻ってくるかというと、
自分たちが子どもを産む時に、五体満足で産まれた赤ちゃんに安心する自分がいるからです。

 友だちの赤ちゃんを見た時に、「五体満足でよかったね」と言っている自分というのは、いのちを選択する自分で
あるからです。そこをどう考えるか。
 多分これを突き詰めていくと、倫理学という学問を超えちゃうと思います。

 欧米とは歴史と法律の差だけ

――脳死が死と考えれば、臓器移植がもっと進んでいくと思うのですが、私は心臓停止を死と考えるんです。
脳死が死と考えれば、移植の数は増えていくんでしょうか? 心臓停止で献体というものがありますよね。
これは沢山あるんではないかと思うんですが。

 献体は、量はありますが、そんな溢れている程は無いと思いますよ。これも独特の問題がありますが、日本では
ずっと行なわれてきていますが、絶対的な量はそんなに多いわけではありません。
 最初の脳死と心臓死ですけれど、「アメリアでは年間に何万例もある」と言ったでしょ。アメリカではずっと進んでいる。
すると、<アメリカ人の方が脳死が人の死だと思っている人が多い>と思うでしょ。でもこれは最近の調査でだんだん
分かってきたのは、一般のアメリカ人に聞いていくと、大体2割くらいは「脳死は死じゃない」と言って、後の2割は自信が
持てない。4割は「脳死は死」と確信できていません。
 日本で調査をすると、だいたい同じです。2割から4割は「脳死は死じゃない」と。ドイツでも3割くらいは脳死は人の死
だと思っていません。

 最近、比較調査ができるようになって分かってきたんですが、洋の東西を問わず、全人口の3割前後は、
「脳死が人の死である」という意見に大きな抵抗を示します。
 だから今までよく文化論で言われてきましたが、欧米では脳死を受け入れるけど、日本人は生命観があるから
脳死を受け入れられない、という考えは間違えです。これははっきり間違えだとわかってきました。覚えておいて下さい。
日本でも「脳死が人の死だ」と考えるのは5割です。一番多いんです。

 ではこの(移植手術数の)差はどこから起こるのか。それは死生観の差ではなく、一つは法律の差です。もう一つは
歴史的な差です。日本では15年間この問題がストップしましたが、アメリカではその15年間に着々と移植を進めるための
ステップを踏んできているんですよ。だから根付いたんです。

 あとは法律ですが、家族の同意で脳死から移植ができるわけです。もう一つは、アメリカでは脳死の議論をやってない、
これが大きいんです。日本では脳死の議論をやっているので、脳死ということは知ってるし、皆意見を持っているでしょ。
アメリカでは脳死ということを知らない人が多いんです。アメリカでは病院でどうするかというと、脳死になったら、
医学的には全部死です。法律的にもそうですから、脳死は死なんです。
 かつ、診断するでしょ、そうすると日本では「脳死になりました」と言いますが、アメリカでは脳死でも「死にました」と
言います。そこで家族は泣き崩れるわけです。なぜならアメリカでは脳死は死と決っているから、脳死になった時に
「死にました」と医者はそう言うべきなんです。日本では「脳死になりました」と言いますから、「脳死は死なんですか?」
という議論になって、「あなたたちが決めて下さい」ということになるんです。アメリカではそんな余地が無い。

 アメリカでは脳死になったら、「死にました」。次に「移植しますか?」と言われます。「します」と言えば、移植のための
医療になって、「移植しません」と言えば人工呼吸器をパンと切ります。ケアしません。死んでるんですから。そこに差が
あるんです。
 だからアメリカ人も日本と同じ議論をして、一般の人も分かってくると、今の状況に不満を持つ人がほとんどです。
その兆候は現にあります。

                                                              以上

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