名古屋西別院仏青勉強会 2001年11月10日

人間関係 1

― 深く絡みあえる関係を大切に ―

【仏青勉強会の記録】

[講師:季平博昭 先生]

 肯定しない人間関係が「透明な存在」を生む

 生きるということの中で人間関係をつくってゆくというのがどういうことなのか、
ということを中心にお話をしたいと思います。

 ここに皆さんの手元に出させていただいた資料で<まえがき>とありますよね。
この文は『お父さんお母さん、こっち向いて!』――心を汲みとり聴いて聞く
カウンセリング――(A5判 214頁 \1,400 ISBN:4-89416-921-5)という本が
[本願寺出版社]から出されていまして、この本は基本的には富田富士也さんという人、
彼はカウンセラーなんですが、子どもたちの悩みごとなんかを聞く中で、お父さんや
お母さんに子どもから訴えたいことなどを綴ったものが、本願寺の新聞に連載されて、
それを一冊の本にまとめたものです。ですから、心をくみ取り聞くカウンセリングという
サブテーマが掲げられている、そういう本なんです。

 その本の一番最初のところ、ですから子育てが中心になるんですけど、基本的に
人間関係というものが示されている、という思いがありまして、今日はここからスタート、
とっかかりにしていきたいと思いますので、この文章を提示させてもらいました。

 「子どもと絡みあい気持ちを聞いてますか」と、はじめにありまして、

悲しい青少年や親子の事件が起こるたびに、
わたしたちは「いまの子どもたちの心がよくわからない」とか、
「いまの親は何を考えているのかわからない」と嘆く。ときには、
「宇宙人のようだ」と言ってわかろうとする努力をあきらめてしまうこともある。
思うに、ただ自分の手の平で人の心を理解することが収まりきれなくなってしまたから
言っているのではないだろうか。いや、だからといって別に自分の考えをねじまげて
他人に媚を売る必要もない。子どもに対しても、叱るときは叱ればいいし、
怒鳴ることしかみつからないときはしっかりと怒鳴ればいい。だが一つだけ条件がある。
その後に関係を投げ出さないことである。あきらめないことである。その努力を放棄するならば、
それは気まぐれである。どんな関係になろうともつむぎあい(けんかしても仲直りする)
維持する営みを粗末にしてはいけない

この部分で思いますのは、自分の考えの中で人を理解する、ということで言えば、
当たり前のことなんですね。人を判断するというのは、しかし自分の範疇で
納まり切れなかったら、その相手の人を自分の範疇外に置いてしまうという、
そんなところで人間関係を作っていったんでは、広がりをもつことはできない、
ということですね。

 このあいだ内田先生・・・僕は同級生ですので先生と言いにくいので
内田君と言ってしまうのですが、内田君の考え方でいえば、
「この人に会えてよかったな、と思う人と、できたら会いたくなかったな、と思う人」、
そういう人間関係ってあると。その<会わなければよかった>という
人間関係を考えてみたら、ということで、ずっと話が展開していましたけれども、
【※編集者注:『「あえてよかった」といえるかな?』参照】少なくとも相手を
深く理解することができるようになると、最後には何か<会えてよかったなー>
というふうに結果的になっていくことができるんだ、と彼の論の中では
展開していたと思うのですけれども、僕自身も<この人は気に食わんなー>
という思いをすることが、実はその人を深く理解できてないからそういうふうに
思ってしまうんだ、ということを経験的に思うんですね。それはカウンセリングを
やっていく中で、その人の心の中の思いを感じ取ることができてくれば、
なればなるほど、そんなことを強く思うようになってきたんですね。

 富田さんが言っている「自分の手の平で人の心を理解することが
収まりきれなくなってしまったから」今の子どもたちの心が解らないとか、
親は何を考えているのか、とすぐに判断してしまうんじゃないでしょうか。
だけでも人間関係を切らないで、関わり続けていくという中で、お互いが
理解する関係というものをつくりあげていくことができるんじゃないか、
維持する営みを粗末にしてはいけない、そういうふうに言っておられて、
さらに読んでいきますと

神戸児童連続殺傷事件の少年Aは、犯行声明のなかで自らを「透明な存在」と呼び、
社会を震撼させ、「十四歳」を印象づけた。それから三年がたち、同年齢・世代の子どもたちが、
まるでもがき苦しみ叫ぶかのように、二〇〇〇年に入って凶悪な事件をやつぎばやに
引き起こしてしまった。そして佐賀・高速バスジャック事件の十七歳の少年は、
犯行動機を「社会にアピールしたかった」と供述している。いずれも共通して願っていたのは、
どんなにちっぽけな身の自分でもかまってほしい。相手にしてほしい、「必要な存在」として
肯定してほしいということではなかったろうか。

 ここまで読んできて、対立するキーワードが2つ出てきていると思います。
「透明な存在」ということと「必要な存在」ということですね。「透明な存在」というのは
14歳の少年が使ったわけですけれど、これは<透き通った清らかな存在>という
ことではなくて、<存在感の無さ>ということを言ってることだと思います。それに対して
「必要な存在」というのは、<人間関係の中で、相手にとって自分自身が必要な存在>
ということですから、「透明な存在」と反対の概念ということになります。「必要な存在」
というのは、役に立つというイメージにもなるんですが、実はここでいう「必要な存在」
というのは、「透明な存在」でもなく、グループの中でその人が存在を認められている。
そういうことなんじゃないかな、と思うんです。

 それは<ここに居ていい>といいますか、そういう「必要な存在」として
肯定されるような人間関係がつくられていないから「透明な存在」という形になってしまう。

 親子関係の中でも、「必要な存在」・「透明な存在」、また皆さん方の人間関係の中でも
自分自身が何かのグループの中で必要な存在になってるか、透明な存在にしかなってないか、
ということを考えていただいたら、お分かりいただけるんじゃないかなーって思います。

 「帰る家」はあっても「還る家」が無い

その次に

ゴチャゴチャした人間関係があれば、善し悪しに関係なく、人は手の届くところに
必ずいることがわかる。「透明な存在」になってもいられない。絡みあえば互いを
肯定しあえる。そして絡みあいつつ、弱音や愚痴をはいたり、聞いたりして
やり取りできる空間を、私は「還る家」とイメージしている。いま相談の場に身を
おいている私は、「帰る家」はあっても「還る家」のない子どもたちが増えていると
実感している

この最初に出てきた「還る家」というのは、私のイメージでは<ふるさとに還る>と、
そんな風に感じています。その「家」というのはどんなところかというと、人間関係の息づいた、
ほっとできる、そういう家。もう一つは「帰る家はあっても還る家のない」という家ですね。
「帰命無量」の「帰」ですけど、単に直線的に帰る家、それは人間関係の息づいていない
建物としての家、という風に言えるかな。だから「還る家」というのは英語で置き換えたら
[home]という言葉。「帰る家」というのは [house] という言葉というふうに考えてみたんです。

 富田さんがそのように言ってるわけではないんですけど、何となくお分かり
いただけるんじゃないでしょうか。ただ単に建物としての家なのか、家族が息づいている、
お互いがお互いのことを思いやっている、そういう家になっているのか。別に英語に
置き換えなくてもいいのかもしれませんが、そのくらいの英語は知ってるということですね。(笑)
 そういう風に考えた時に、homeという家になっているかどうか、というところに人間関係を
考えてゆく、この集まりは自分の家ではないけれども、グループとして人間関係が息づくような、
そういう形になっているかどうか、ってのを考えていけばいいように思います。

 ついこの間、さっきから言われていたように、中央教修というところで、
この話が出てまして、私たちは仏教青年会ですけど、この「家」というものを
「お寺」というふうに置き換えてみたらどうだろうか、という話をしました。

「還る寺」になっているだろうか。建物としての寺だけになっているのではないか、
と。それを聞いていた同僚のスタッフが「それを英語で言ったらどう言えばいいんだ」と、
野次を飛ばさなかったんでいいのですが、後ろでどうもやり取りをしていたみたいでした。
 後で私のところにメモが回ってきまして、「帰る寺」を [temple] とすれば、「還る寺」は
どう言えばよいのか。これをどうも考えてくれていたみたいで、[our temple] ではないか、
と。私たちの寺。帰る方は [a temple] 、寺という建物、という概念で説明できるんでは
ないでしょうか。後ろでそういうことをメモでやり取りしていたみたいです。

 息づいている「還る家」というのは、弱音や愚痴を吐いたり聞いたりやりとりできる空間。
仏教青年会活動で目ざすものというのは、私はこうした「弱音や愚痴を吐いたり聞いたり
やりとりできる空間」を目ざしてきたなあ、と思いますし、これからもそうあってほしいな、
と思います。

 子どもに懐いてもらえる脇の甘さ

いつの時代にあろうとも、子どもの置かれている立場は無力である。
子どもの家庭内暴力の前に、親の御しつけが無力の子どもに気まぐれに
向けられていたことはないだろうか。それを親の家庭内暴力とまでいう
つもりはないが、きっとあり得ないと子どもの前で断言できる親はいないだろう。

子どもの親に対する家庭内暴力というのは話題になるけれども、
親が子どもに暴言を吐く、ということの中でそれが子どもに対する家庭内暴力という
ふうには言えないだろうか。これは現代では虐待という問題が起こってきているのですから
、まさにここのところで考えていかなければなりません。『やっとかめ通信』の中でも
載っていましたが、【※編集者注:『家庭内暴力からみえてくるもの』参照】 まさにそうだな、
と思いました。

だが、絡みあい、互いの互いの弱さ、報われなさ、悔しさを聴く視点さえ忘れないで、
大人がもう一度、踏ん張って子に接していけば、必ずいつかは閉ざされた子どもの心も開き、
いじらしい心をみつめあえる日もくる。なぜなら人は優しさにふれると優しくなれる。いやなりたい、
ならないではいられないからだ。それほど人は孤独には強くない。とくに子どもは無力だからこそ、
親や先生の懐に飛び込んでいくしかない。防衛していては生きていけない身が子どもである。

この文章の中で言えば、「人は優しさにふれると優しくなれる。いやならないではいられないからだ」この文章はすごい大事な文章だな、と思っています。

 2ヶ月か3ヶ月前のことでしょうか、『少年たち2』というNHKのドラマが放映されていましたけど、
その中で家庭裁判所の調査官と保護責任者のやり取りで、同じような言葉がでてきていました。
「愛情の中で育てられたら、優しい愛情を持った子に育つことができる。だけど、憎しみの中で
育てられた子は憎しみを持って育っていくから、しんどいね」というような会話があったような気がします。
またそこのところはすごい本質的な言葉だったな、と思うのです。

子どもが努力しても報われないとき、弱点が人様の前であからさまになっているとき、
「この私」に懐いてくれているとしたら、それは信頼できる大人であると"お墨付き"をくれた
ようなものである。ひとまずその子の「還る家」になれているのである。
 子どもに懐いてもらえる脇の甘さを親自身が育てているだろうか。脇の甘さとは、
親のいたらなさをも謙虚につぶやくことである。それが絡みあいの第一歩である。
相談室でつびやく子どもの心を汲み取っていっしょに聴いてみませんか。

 こうした呼びかけの後に子どもたちの発言がこの本の中に収められているのですけど、
ここのところで「子どもに懐いてもらえる脇の甘さを親自身が育てているか」というところは
大事な指摘だな、と思うのですが、子どもと親という関係だけじゃなくて、友たちとの関係の中でも、
<自分をよく見せたい>という気持ちはありますよね。自分が失敗しても素直に「ごめんなさい」と
言えない。だけど他人が失敗した時にはきっちり指摘する。
 自分が変な駄洒落を言って笑ってもらえないと悲しいけれど、他人が変な駄洒落を言ったらけなす、
というのも同じことかもしれません。私はいつもそう言って叱られるんですけどね(笑)。自分の駄洒落には
寛容で他人のには厳しい、と指摘されるんですけど、「ごめんなさい」が言える、というのが、脇の甘さかな、
って思うんです。富田富士也さんのこの思いというのは、大事だと思っています。

 「自立」と「孤立」

今ずっと文章を読ませていただいて、「還る家」・「還る寺」って言いましたけど、お互いがお互いに
弱音を吐いたり愚痴を吐いたり、それを聞きあう、という人間関係ができた時に、それが心地よい
人間関係になってゆく。それにはポイントがあると思うんですね。

 それは「自立」だと思います。

 私にカウンセリングを教えていただいて、今でもアドバイスを受けている先生が大阪にいまして、
その先生はこういう『心の扉を拓く』という本を出してまして、その中に「自立」という項目を設けています。
で、その中に注目すべき言葉がありまして、

「一般的に自立といわれているものの内容としては、他人に頼らずに一人でやっていける、ということ」

――頼らないで一人でやっていく、というのが自立と思われているけども、それは違うんだ、というふうに
この文章の中に書かれています。人に頼らずにやっていく、ということの思いを強くしていくと、結果的には
「孤立」ということになってしまう。

 要するに、人は一人では生きていけない訳ですよね。人に頼らないで生きていくということは、
これは不可能なんです。いろいろなものによって支えられているということで言えば、
「私は誰にも頼っていないよ」と言いながら、知らない間に、自覚的でない中で、
ちゃんと支えられているということですよね。そうしたら、誰にも頼らず何にも頼らず生きていく
ということが自立であるとすれば、自立している人は居ないということになりますね。
逆にその考え方でゆくと「孤立」になっちゃう。これお分かり頂けますか? 

 だから本当の自立というのは何かというと、こんな風に書いてあります――

「自立は孤立とは違う。他者とのより良い共存関係を結ぶための礎となるのが自立」

ということです。

「人に頼らないということは、人を信頼しないということにもなってしまう。逆に、
自立していないからこそ一人で突っ張ろうと無理をしてしまう」

つまり、支えられている、ということが認められてないから、それを拒否して突っ張ろうとする。
これを「ツッパリ」とか「頑固」と言います。

「そんな寂しい人生が望ましいはずがなく、人生は豊かなものでありたい」

じゃあ、本当に自立しているというのはどういうことを言うのか、というと二つのことが言える、
と先生は書いてみえます。

「甘えたり頼ったりできるということは、素直に「わあー助かる。よかった」と喜んで
してもらえるが、誰にも助けてもらえない時には、不平不満をごてごて言わずに
一人でそれなりにしっかりやれる」

というのが自立できている状態なんだ、と。

 それを整理していくと、助けてもらえる時には助けてもらうんだ、と。素直に援助を受ける。で、
助けてもらえない状態の時には、不平不満を言わずに、自分でしっかりやっていく。耐えてゆく。
この二つのことができる人のことを「自立した人」だ、と。こういうふうに私の師匠は言ってくれてます。

 これ大事な指摘だと思いません? 案外助けてもらえるときに助けてもらう、という風に言っちゃうと、
自立じゃないと思いがちなんですね。ところが、人は助けてもらえないと生きていけないのです。
そういう事実があるわけです。その事実に目がついたら、助けてもらえる時には素直に助けて
もらえばいいんだ、と。助けてもらえない時にはごてごて言わずに耐えていればいいんだ。
ひとりでそれなりにやってゆく。この二つのことが成立するというのが自立ということ。

 辛いメシアコンプレックス

 だから自立をするということは、すなわち同時に互いに支えあうという、
「連帯」・・・この言葉は師匠は言ってませんが、そこに連帯がなかったら、
自立も成り立たないわけです。

 支えられてある、ということが頂けるということは、私も相手を支えたいと思う、そういう関係が
連なっていくわけです。そういう中で、自立ということがあるんだ、ということ。で、自立してないと
連帯ということも否定的になってしまう、ということです。

「自立できてないと、人を手助けすることも潔しとしない。一人でできて当然だと思うし、
どうして私が負担を負わねばならないのか、という筋論から不満が起こる。あるいは逆に、
必要以上に必死に助けてあげないと相手が気の毒だと思い込んだり、相手に申し訳ないと
感じてしまったりすることにもなる。
 人の手助けをすることを望まないのも、人から助けられることを極度に嫌うのも、
自立できていないからといえるし、お節介が過ぎるのも自立できてない所以ということだ」

 だから、その人がやらなくちゃいけないことまで引き受けてやってあげようとする、という人が
時々居るじゃないですか。そういうのはお節介というんですけど、「この人を助けてあげなきゃー」と、
そういう感じね。何となくイメージできるでしょ。それも自立できてないことです。

 実はカウンセリング理論の中で、こんなことも言われるんです、<自分が救われたいんだけど
自分が救われる状況にない。だから人を救うことによって「良かった」という感じをもらって、
人を救うことによって自分が救われた気持ちになる。そういうのを「メシアコンプレックス」と
いうんですけどね。
 だから自分が本当は救われたいのだけど、人を救うことで自分が救われた気持ちになるというのは、
非常に悲惨な訳ですよ。自分の状態がすっごいしんどいのに、そのしんどい状態を何とかしようというのでは
なくて、相手のしんどさを何とか受け入れてあげよう、と思う。余計に自分の方がしんどくなるでしょ。

 そういう方、けっこういらっしゃる。でも「メシアコンプレックッス」というのが無かったら人の世話を
しようと思わないんで、そういう意味ではそういう考え方も大事なんだけど、極端にそっちにいってしまうと、
大変辛い思いをしていかなければならなくなる。

 つっぱりとか、頑固というのは、自立できてない人がそういう状態になってしまうんだ、と。
こういうことですね。だから人間関係をつくるっていう意味では、「助けてあげよう」と言われたら、
素直に「ありがとうございます。助かります」、そして助けを素直に頂く。助けてもらえないなら
「仕方ないなー」と耐える。それが自立ということなんだ。こんなふうに言えるんだと思います。


                                                  人間関係 2 

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