>| 「曲がった松の木を、真っ直ぐに見るにはどうしたらいいか?」
>| 以下はひとつの回答ですが、
>| 「この松の木は曲がっている」と見ればいいのです。
>| それが真っ直ぐに見るということです。
>| これは言葉の問題ではありません。
>| 「いのちの座標軸」ということで考えてください。
>|
>
>「いのちの座標軸」とはどういうものなのだろうか。
>理解できなかったですが、
>「この松の木は曲がっている」・・・・それが真っ直ぐに見るということです。
>この言葉で、何となく・・・・。
>曲がっている物は、曲がっていると觀る・・・・
>曲がった物を如何に真っ直ぐとしたものと觀るのではなく。
>曲がった物を、曲がったままに觀る『自分の素直・真っ直ぐ』が大事という事なのですね。


>それが、しっかりとすれば、「自分の身命の座標軸」も、揺らがなくなる。
>その身命の座標軸を定めたいと望めど・・・・。


とても難しいですよね。やはり机上のものではなく、実際に生き、生活をしている中
の問題なのですから・・・。
私も痛いほどわかります。しかし、わかるというのも机上だけのもののような気がします・・・。
もっと法を聞かせていただかなくてはいけませんね。

さて、座標軸を揺るがないものにするということは、やはり、法に照らし合わせると
いうことが重要になってくるのではないでしょうか。
仏法は、自分をうつしだす鏡である、毎日自分が鏡を見て生活をしてるように、
自分の生きる姿も、仏法という鏡に照らし、毎日を送らなければならない、と言うことを
聞かせていただいたことがあります。
その鏡が間違ったものであれば、当然、自分の姿もきちんと写らないのと同じでしょう。
わたくしもそうなのですが、そのためには法を聞かせていただき、お念仏をさせて
頂かなければならないのだと思います。
わかっているのですが、できない私です・・・。
うっ、情けないですねぇ。。。


>9・身命の座標軸。
>
>  私は、どの答えが法に照らし合わせた軸となるのか。
>  私にはわからない。
>  しかし、以前に私の軸の揺らぎをいっておられましたが、
>  まず、自分達の家庭の安定をはかり、その安定の軸を基にした上で、
>  周囲との安定を図り、力及ばぬ時は、「此処まででやむを得ぬ」という、
>  気持ちの整理も必要という事なのでしょうか。


先ほども書きましたが、自分の身の上の出来事なのですから、それをどのように
味わわせていただき、生活するかと言うことは、非常に難しい気がいたします。
御存知のとうり、わたくしも、両親は新興宗教に入信してしまいました。
はじめは、ヤッキになって反対しましたが、意見はぶつかるばかりでした。
『各宗教の関係』のメールにも書かれていましたが、家族の誰かが他の宗教に
入信した時点で家族崩壊している、とありましたが、まさにそのとうりだと思いました。
目に見えない壁を感じ、全く家族ではなく、なんだか別人のような気さえしてきました。
実際、私もそのように感じましたし、どなりつけたこともありました。

しかし、「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまいもすべし」
(どうしてもそうしなくてはならないという縁に会えば、どのようなことでもします。)という
歎異抄十三章の言葉を聞いて、「もしボクが両親の立場だったら・・・」、「もし、自分
が追い詰められている時、『その苦しみを取り除いてあげよう』と何かの宗教から
甘言をかけられたら・・・」と考えた時、やはり両親と同じようにしているであろう・
・・と思いました。
そのように考えた時、何も言えなくなり、静かに見つめていようと思いました。
いや、そうするしかなくなった自分があったというほうが正しいでしょうか。
少し歯がゆいんですが、そのほうがなんとなく関係が穏やかになりました。
やっぱりぶつかれば、それだけの大きさで返ってくるのでしょうか。
これでいいのか悪いのかは今のボクにはわかりませんが、家庭の中が穏やかな
ほうがいいのでは・・・!?
詳しい事は以前メールさせていただいたとうりです。

宗教が関係していることが、Sarubiaさんのメールに書かれていたので、なんとなく
わたくしと似ているなー、と思いました。
はたして同じ心境かどうかはわかりませんが、なんだかわかるような気がします。

どのようにすれば解決するか?とか、どのようにすれば丸く収まるのかとか、自分の
生きる座標軸を揺るぎ無いものする方法などは、私にはわかりません。
私も、まだまだ勉強させて頂かなければならない身ですので・・・。

少し長くなってしまいましたが、申し訳ありません。
それでは、今日はこのあたりで失礼させていただきます。

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> | 「曲がった松の木を、真っ直ぐに見るにはどうしたらいいか?」
> | 以下はひとつの回答ですが、
> | 「この松の木は曲がっている」と見ればいいのです。
> | それが真っ直ぐに見るということです。
> | これは言葉の問題ではありません。
> | 「いのちの座標軸」ということで考えてください。
> |
>
> 「いのちの座標軸」とはどういうものなのだろうか。
> 理解できなかったですが、
> 「この松の木は曲がっている」・・・・それが真っ直ぐに見るということです。
> この言葉で、何となく・・・・。
> 曲がっている物は、曲がっていると觀る・・・・
> 曲がった物を如何に真っ直ぐとしたものと觀るのではなく。
> 曲がった物を、曲がったままに觀る『自分の素直・真っ直ぐ』が大事という事なのですね。
>
> それが、しっかりとすれば、「自分の身命の座標軸」も、揺らがなくなる。
> その身命の座標軸を定めたいと望めど・・・・。

自分で問いを出しておきながら「実に難問だなあ」とあらためて思います。
しかし宗教の核心に触れる問題ですから、解決しないで済むことではありませんね。

例えば安田理深氏の「信心における道理と時」の講義は
以下の言葉で締めくくられていますが、これがひとつの回答になると思います。

―――――――――――――――――――――――――――――――
「時機純熟」は信仰が個人経験でないことをあらわしている。
つまり信心が回向であることをあらわしている。

親鸞の教学以外でも信心ということはいわれているが、
「時機純熟」して信ずるということはいわれていない。
思いを超えた一念に目覚めたのは、目覚めなかった長い間が成熟したという
意義をもつ。
長い間、我々が迷ってきたのは無意味に迷ってきたのではない。
今、目覚めたこの一念のために長い間の迷いがあった。
本願に背き、あるいは忘却することも意味があったのだと。
本願の歴史の完成として今日の自己の信念が確立する。
このように、信仰は個人的なものではなく、
歴史的なものだという意味において「時が熟する」というのである。
これが「時熟」である。
―――――――――――――――――――――――――――――――

> 9・身命の座標軸。
>
>   私は、どの答えが法に照らし合わせた軸となるのか。
>   私にはわからない。
>   しかし、以前に私の軸の揺らぎをいっておられましたが、
>   まず、自分達の家庭の安定をはかり、その安定の軸を基にした上で、
>   周囲との安定を図り、力及ばぬ時は、「此処まででやむを得ぬ」という、
>   気持ちの整理も必要という事なのでしょうか。

現実の問題は、Sarubia様自身が決定していかなければなりません。
親戚とのつきあいも、迷いながら自分自身でひとつの形にしていかねばなりません。
実に厳しく、時にやりきれない思いを抱くのが現実の問題です。
そこにはあらゆる定理は役に立たず、主観に任せても解決は見出せません。
しかしその一つ一つの迷いの行動の中に、尊いはたらきが見出せるのです。


そろそろ、私の言おうとしていた「いのちの座標軸」ということについて、
述べなければならないでしょうね。

ただしこの言葉は私の教学理解のための一手段として個人的に出した言葉ですので、
何か定説があってそれを使用している訳ではありません。

私たちは生き方に迷った時、揺らぎ無い「ものさし」を現実に求めようとします。
それは理論や主義・道徳、といったものであったり、
強烈な個性をもった人物であったりしますが、
理論だけでは人生を頑ななものにしてしまいますし、
他人にいのちの中心を握られるのは精神的奴隷になることに他なりません。

釈尊は「自灯明・法灯明」ということを遺言として言われましたが、
自らの生の過程において、その軸を見出す必要があるのでしょう。
しかし自分の価値観は揺れに揺れている。
出会う人毎、悩みを持つ毎にその軸はぶれてしまいます。

その乱れを正当化するのではなく、乱れている事実を事実として見抜き、
無明を無明と見抜いていくことで宗教心・菩提心が育つのですが、
その心はこちらから見抜くより先に、宗教心・菩提心の方からはたらきかけて下さったものです。
そのはたらきを浄土真宗や浄土宗では「弥陀の本願」として聞かせていただくのですが、
これが単に個人の主観としてでなく、
「本願の歴史の完成として今日の自己の信念が確立する」
というように、人類の・いきとしいけるものとのつながりの中で
座標軸が見出せていけるのではないでしょうか。

Sarubia様の悩み迷いは、それ自身を解決することも大切でしょうが、それ以上に、
悩みや迷いと真剣に向き合うことで、本当にいきとしいけるものとの交流を果たしてゆく。
個人としての悩みが、いきとしいけるものの普遍的なテーマに挑む縁となり、
一切衆生の救済という「いのちの根本的な願い」がSarubia様を通じて明らかになってゆくのです。

家族・親戚の行状やSarubia様の悩み迷いが、
そうした「いのちの座標軸」に新たな一ページを加えてゆくことになるでしょう。
そしてその一ページがなければ、宗教も信心も全くの嘘八百に過ぎないことになるのです。

合掌

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           ※ この命の座標軸についてのお話は,以前にSarubiaが人間関係に苦しんでいた時に,
                「やっとかめ通信」の編集の皆様から伺ったお話です。

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